子守唄

 隆はあたしの身体を律動的に揺さぶっていた。息は荒いが、でもその表情に苦味は見受けられない。
「××よ……」
 自然に培われたであろう無駄のない筋肉質な腕はあたしの両肩上で突っ張られ、腰の動きは激しくなり、胸元から滴る汗があたしの顎を濡らす。 
「××て……」
 彼は高みに昇ろうとしていた。見逃さないよう、だけど見ていることを気付かれないよう、薄目を開けて彼を見つめる。
「……ッ!」
 定まらない視線、鼻は膨らみ、口は半分開いて、お尻は不規則にピクンピクンと波を打つ。同時にあたしも同じ場所へ辿り着いたフリをした。彼はその反応を見ると満足そうにあたしに覆いかぶさってきた。彼の熱い肌と、冷えたままのあたしの肌が密着する。身体は嘘をつけない。
 ベッドの近くに散乱した下着を拾い上げていると、隆はソファーに座り、右手でマルボロを挟みながら、左手で1リットルのペットボトルを持つ。清涼飲料水は彼の喉を通過している。上下に動く喉頭をじっと見つめていたら気が遠くなった。つい先ほどまで抱き合っていたこの男が誰なのか、どうしてあたしはこの男と同じ部屋にいるのかを考える。視線に気付いたのか、ショーツに片足をかけたままの間抜けな恰好でいるあたしを彼が見つめる。不思議な事に、この男にならどんなに見つめられていても羞恥心がない。それがどうしてなのかはよくわからない。


 隆と出会ったのは、春を数ヵ月後にした寒い夜だった。
 久しぶりに中華でも食べようよ。という友人の誘いに嬉々としながら電車に乗った。お店には20分も前についてしまい、道行く人々を眺めながら友人を待っていると一人の男性が現れた。それが隆だった。
 隆は友人の友人で、ひどく疲弊しているように見えた。顔は青黒く頬がこけて、一緒に食事をしても、ほとんどの料理に箸をつけなかった。友人が、こいつ、振られたんだよね。と、からかっても、隆は怒りもせずただ愛想笑いを浮かべているだけで、生気が見えなかった。
 会話らしい会話は何ひとつしていないのに、あたしは友人と別れた後、隆をお茶に誘った。
 その中華屋から3軒ほど離れた場所に小さな喫茶店があったので入った。隆はあたしが席につくまで立って待っていた。その様子がとても良かった。ミルクティとコーヒーを挟んであたし達は暫く無言だった。誘っておきながら何を話していいかわからなかったあたしは、困惑の表情を浮かべていたと思う。切り出したのは隆の方だった。
「俺、女に捨てられたんですよ」
 彼のその発言は的確だった。『捨てられた』この言葉が一番しっくりくる。長年付き合っていた彼女に隆は二股どころか四股、五股をかけられていたという。言い合いになったり隆から別れを切り出したりもしたけど、彼女に泣きつかれると別れる事も出来ず、隆は自分を責めたと言った。
「彼女は俺を金目当てにしていたらしいんですよね」
 コーヒーを啜りながら彼は苦笑してそう話した。その目は寂寞に満ちていた。
「知った時はどん底でした。嘘だと思いたかった」
 高い波にのまれて、命からがら岸にたどり着いたような隆に、あたしはあたしを見ていた。
「どこがよかったんですか?」
 隆への質問というよりは自分への問いのように訊いた。そうすると彼は暫く考えて、よくわからない。ただ俺を必要としていると思ったんです。と、言った。
 その日あたし達は敬語で話し続け、何杯目かのお茶を飲み終わったところで別れた。隆はあたしの家の最寄り駅まで送ってくれて、寒いですから……。と、彼が被っていたニット帽をあたしに手渡してくれた。それからあたし達は二人だけで会う回数を増やしていった。

 当時あたしはひとつの恋の終わらせ方を模索していた。その人とは1年付き合っていたが、恋と呼んでよかったものかどうか、今となっては懐疑的だ。付き合っていた男にはいつもあたしではないほかの誰かがいたし、電話もメールも男からくる事はほとんどなかった。
 初めて"あたし以外の誰かに"気付いたのは、会社帰りに待ち合わせをして二人で立ち寄った天麩羅屋での事だった。男は穴子を、あたしは海老を咀嚼していた時、男のポケットの中からくぐもった音が聞こえた。もう何度も耳にしているその曲は、数年前の映画で流れていた、Shape of my heartだった。男は絶対に携帯をテーブルの上には置かなかった。着信の主が誰なのかを確認もせず、トイレに行ってくる。と、席を立ち、10分後には何事もなかったかのように隣に座った。あたしは何も訊かなかった。ただ、天つゆに浸され放置されたため、冷めてしんなりした穴子が不憫だ。と思っていた。
 2度目はホテルで事を済ませた後だった。クローゼットに入ったスーツの上着からまたあの同じ旋律が男を呼んだ。乱れたベッドから立ち上がろうともせず、あたしの髪を撫で続ける男の目を一瞥してから、あたしは身体にバスタオルを巻いた。何度一緒の夜を過ごしても、この男に裸を見せるのは恥ずかしかった。そしてバスルームに行き、シャワーのお湯をめいっぱい出して男の声が聞こえないようにした。その時もあたしは何も訊かず、濡れた肌を男に擦り寄せてもう一度男の体温を独り占めした。
 3度目は車の中、この時は電話を無視し、4度目は腕を組んで歩いている時で、5度目は……。それ以外の曲ならあたしの前でも携帯を手にするのに。
 別れを自分から切り出せなかったあたしは、少しずつ男と距離を置くようにしてそして自然消滅した。だけど、あたしの心の中には男がまだ溢れたままだった。

 あたし達はすごく寂しかった。隆は彼女と別れて数ヶ月、あたしは1ヶ月。似たような境遇の者同士が肩を寄せ合うのに理由も時間もいらなかった。隆は隆を利用しない人なら、あたしはあたしの右側を埋めてくれて、全てにおいてマメな人なら誰でもよかった。あたし達はあたし達が出会う前に付き合っていた人と違うタイプの人なら誰でも良かったんだと思う。


 付き合い始めて半年が過ぎた夏の夜。隣町の花火大会を見た帰り、あたしはいつも通りに隆の部屋へ寄った。明日は月曜だからこのまま彼の部屋へは泊まらず帰ることにしていた。
 8畳の部屋には必要最低限な家具しか置かれていない。それらは全て黒で統一されている。あたしが今座っているソファーも、テレビも時計もカーテンも。
 隆はキッチンから2本のビールを持ってきて一人用の座椅子に座った。もちろんそれも黒い色をしていた。あたしは渡されたビールを丁寧に断り、花火を見ながら飲んでいたお茶をテーブルの上に置いた。テレビもつけず、ただ黙って隆はビールを飲み続けた。あたしはこの静寂に居心地が悪くなり、時計を見つめてそろそろ帰ろうかと思っていたところだった。
「俺は必要?」
 声に驚いて隆を見やると、神妙な面持ちで彼はあたしを見つめていた。
「え?」
「……。うん。俺は典子にとって必要かなって思って」
 煙草を吸うのは恰好つけと、手持ち無沙汰になった時と、上手い返事を考える時間をつくるためだ。と、言ったのは父だった。あたしは煙草に火をつけた。なんて答えていいのかわからなかった。隆とあたしは隙間を埋めるために付き合い始めたと思っていたし、埋めるためにはかなりの時間をかけなければいけないとも思っていた。その間にあたしは男を忘れ、隆は彼女を忘れていくのだと、なんとなく思っていたのだ。そして、それはまだお互い達成されていないとも思っていた。
 隆と過ごす時間で彼女へしていた癖を何度も見つける事が出来た。腕を組むのが好きなあたしと違って隆は手を握る。ベッドの中で身体に這わせる唇は、彼女の敏感だった部分をなぞる。そんなあたしはそれらの動きを観察し、男と比べている。そういう夜を何度も過ごしていた。だから隆のこの突然の質問は驚異的だった。
 あたしはくすくすと笑い、何を言ってるの? と、訊きかえした。質問に明瞭な言葉が返せない自分を、心の中で涙した。隆はあたしのために用意したビールのプルタブを開け、5回で飲み干した。ゴクッゴクッと喉が鳴っていた。
「なんとも思っていなければこうして部屋にきたりしないでしょう?」
 やっと出た言葉は無難で、そして明快ではないものだった。隆はふいに顔を歪めた。徐々に目の周りが赤くなり透明な液体が零れた。そしてあたしの横にきたかと思うと、自分の真正面に向きなおさせ抱きしめた。
「……怖かった」
 隆は泣きながら言った。
「何が?」
 あたしは状況がよく掴めないまま訊いた。
「もし、典子が俺を必要じゃないと言ったらすぐに包丁で刺してもらおうと思った」
 そう言ってあたしの肩に顔を押し付け嗚咽を漏らした。


 「馬鹿ね……」
 あたしはそう言って隆を抱きしめ背中を優しく撫でた。馬鹿ね……。それはあたしへの言葉でもあった。
 彼は毎日メールを送ってくれる。あたしが返事をしなくても日に何度も自分の今を伝えてくる。愛してる。と、催促しなくても言うし、あたしが何時間もかけてワンピースを選んでいても文句のひとつも言わない。どんなにあたしが我侭を言っても、いいんだよ。と、笑う。
 隆はまだ泣いていた。身体を小刻みに震わせ、あたしを抱いたまま泣いている。もう一度あたしは、馬鹿ね……。と、呟いた。隆が顔をあげたので、頬を濡らした水分を手で拭った。
 そして気付いた。エアコンをつけた涼しい部屋の中でも、あたしの肌は隆と同じぐらいに熱くなっていた。
「我侭言ってもいいかな。俺が眠るまで帰らないで」
 あたしは頷き、一緒にベッドに入った。
 彼が寝息をたてるまで、あたしはずっと隆だけを見つめ、小さく唄を歌った。

2007年08月08日00:42 [創作]

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